誰もが一度は耳にしたことがあるだろう、メランコリックで親しみやすいメロディー。この「サン・トワ・マミー(Sans Toi M’amie)」は、ベルギーの歌手サルヴァトール・アダモの代表曲の一つ。
※翻訳者の解釈によっては「サン・トワ・マ・ミー」と表記される場合もある
作詞作曲ともに、「雪が降る(Tombe la Neige)」「ろくでなし(Mauvais Garcon)」などのヒット曲と同じく、アダモ自身が手がけたもの。まだ19歳だった1962年に発表されて以来、シャンソンの名曲として人々に愛されつづけてきた歌だ。
歌詞の内容は、アダモ自身の経験がベースになっているらしく、「もう一度チャンスをくれないか」と、失恋してもあきらめられない恋人に対する切ない気持ちが描かれている。
日本では越路吹雪が歌唱した、岩谷時子による日本語詞が広く親しまれている。東京オリンピックが開催された1964年、越路(当時40歳)が発表したシングル盤には、“愛しているのに”というサブタイトルが付けられていた。
越路はこの歌を自身のリサイタルやステージなどで必ず披露し、「愛の讃歌」「ラストダンスは私に」などと共に、“十八番”として晩年まで唄いつづけた。
岩谷による訳詞では、越路が歌唱するにあたって、主人公を女性に置き換えた大人の女性の恋の歌になっており、アダモ自身の若き日の失恋を描いた原詞と比べると、かなり意訳されたものになっている。
ところで、このフランス語タイトルの“Sans Toi M’amie”とはどんな意味なのだろう?
Sansは英語でいうWithout。ToiはYou。M’amieはHoneyやBabyやSweetieと同義語。つまりは、「僕の愛しい人よ(honey)、君なしでは(Without you)」という解釈が一般的とされている。
19歳にしてこの名曲を書き上げたアダモはどんな生い立ちを持つ歌手なのだろう?
1943年11月1日、イタリアのシチリア島で炭坑夫の長男として生まれた。4歳になる年に、一家はフランス国境に近いベルギーの炭坑町に移住する。祖父からギターをもらい、14歳から作詞作曲を始める。15歳で民放ラジオのコンクールに優勝し歌手になる決心を固める。
そして18歳を迎える年にして、フィリップスレコードからデビューするも不発に終わる。翌年になってポリドールからリリースした曲も売れず、起死回生を賭けてEMI傘下のレコード会社に移籍し、「ブルー・ジーンと皮ジャンパー(En Blue Jeans Et Blouson D’Cuir)」を発表するが、大衆はまだ彼の才能に気づくことはなかった。
歌手への夢をあきらめきれない彼は、「もう一度チャンスをくれないか」と信頼を失った恋人に対して切望するように、同年の11月にこの「サン・トワ・マミー」を発表する。同曲は、年をまたいだ翌1963年の初春からヒットチャートを駆け上り大ヒットを記録。
一躍、ベルギーやフランスで国民的歌手となった彼は、その後も自作曲を立て続けにヒットさせ“シャンソン界の貴公子”と呼ばれるようになる。1965年には、若干22歳にしてフランス音楽界の殿堂オランピア劇場で公演を成功させ、その人気を不動のものにした。
時は流れ、、、アダモが手掛けた数々の名曲を日本に広めた越路吹雪が亡くなったのが1980年(享年56)。本葬にはアダモの姿もあった。岩谷はアダモに駆け寄り、一言「メルシー(ありがとう)」と伝えた。
それまで多くのシャンソンを日本語に訳してきた岩谷だったが、意外にもその時アダモと交わした言葉が、生まれて初めて口にしたフランス語だった。
<引用元・参考文献『ロック&ポップス名曲徹底ガイド①』音楽出版社>
サン・トワ・マミー~アダモ・ベスト
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執筆者
【佐々木モトアキ プロフィール】
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【公演スケジュール】
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