1969年6月22日、アメリカのポピュラー音楽の歴史において大きな功績を残したジュディ・ガーランド(享年47)が滞在先のロンドンで死亡した。
死因は睡眠薬の過剰服用とされているが、一説では自殺とも言われている。
白人女性歌手として初めて大幅に黒人的な発声を取り入れた彼女は、ビリー・ホリデイやジャニス・ジョプリンと同様に“生き急いだ歌姫”として知られている人物である。
ヴォードヴィル歌手の父とピアニストの母との間に生まれた3人姉妹の末っ子として育った彼女は、2歳の時から姉達と共に舞台に立ちはじめる。
1926年に一家はカリフォルニアに移住。
1930年代に入り、舞台女優として活動するガーランド姉妹は“ガム・シスターズ”として知名度を高めてゆく。
1934年には“ガーランド・シスターズ”に改名し、翌1935年(当時13歳)でMGMと週給100ドルの7年契約を結ぶ。
1936年、女優のディアナ・タービンと共に短編映画『Every Sunday』やミュージカル映画『Pigskin Parade』に出演。
1937年には『Broadway Melody of 1938』や『Thoroughbreds Don’t Cry』などに出演し、親しみやすい性格と歌唱力の高さから人気が上昇。
1939年(当時17歳)には、時代を超えて愛され続けるミュージカル映画『The Wizard of Oz(オズの魔法使)』の主役に抜擢され不動の人気を確立することとなる。
映画公開から62年後…2001年、全米レコード協会はこの「Over The Rainbow(虹の彼方へ)」を“20世紀の歌(Songs of the Century)”の第1位に選んでいる。
Somewhere over the rainbow Way up high
虹の彼方、高い高いところに
There’s a land that I heard of Once in a lullaby
そのむかし子守唄で聴いた土地があるというの
1941年、18歳の時に音楽家のデビッド・ローズと結婚したが、3年後には離婚。
この間、彼女は妊娠をするが…イメージを損なうとの理由で中絶を余儀なくさた。
二十代を迎えた彼女は、さらなる飛躍を遂げるべく映画『For Me and My Gal』(1942年)、1943年の『Presenting Lily Mars』(1943年)、『The Harvey Girls』(1946年)など、多くの作品に出演し続け、着実にキャリアを積み上げていった。
1945年、彼女が主演した大ヒット作 『Meet Me in St. Louis(若草の頃)』 (1944年) を手掛けたヴィンセント・ミネリ監督と再婚。
翌1946年には、長女のライザ・ミネリを出産している。
(娘ライザも後に女優となり『キャバレー』 (1971 年) でアカデミー賞主演女優賞を受賞)
彼女は子役から美しい大人の女優へと変貌を遂げてゆく一方で、神経症と薬物中毒が原因で入退院を繰り返し始める。
事務所からはスリムな体型を維持するためにダイエットを強いられ、過密スケジュールに絶えられるように当時合法だった覚醒剤や睡眠薬を常用させられていたという。
不安定な精神状態と薬物中毒が悪化する中、1961年(当時39歳)に公開された映画『Judgment at Nuremberg(ニュールンベルグ裁判)』で圧巻の演技を披露し、アカデミー助演女優賞にノミネートされる。
輝かしい成功の裏で、彼女は薬物の副作用によって遅刻や欠勤を繰り返す常習犯となり…遂には自殺未遂まで起こし、問題児扱いされるようになってしまった。
『ブロードウェイのバークレー夫妻』 (1949年)、 『アニーよ銃をとれ』 (1950年) といった作品を途中降板させられ、『Summer Stock 』 (1950年) への出演を最後にMGM社から解雇されてしまう。
その後はハリウッドから離れ、コンサート活動をスタートさせる。
1951年から52年にかけてニューヨークのパレス劇場で行ったショーが記録的な大成功を収め、トニー賞特別賞を受賞。
三番目の夫となったシドニー・ラフトが製作した『スタア誕生』 (1954 年)で、4年ぶりに銀幕復帰するものの…以前から患っていた神経症を悪化させ、再び自殺未遂を起こす。
精神的な不安を抱えながら舞台を中心に活動を続ける中、1961年(当時39歳)にはニューヨークのカーネギー・ホールで行ったコンサートを収録したライヴアルバム『Judy at Carnegie Hall』 がビルボードのアルバムチャートで13週連続No.1を記録。
同アルバムの大ビットにより、彼女はグラミー賞で最優秀女性歌唱賞、最優秀アルバム賞を受賞している。
40歳となった1962年には、TV 番組『ジュディ・ガーランド・ショー』の放映が開始される。
フランク・シナトラ、ディーン・マーティンなど多彩なゲストを迎えた同番組は大好評となり、彼女はCBSと当時のTV史上最高額のギャラでレギュラー番組としての契約を締結。
1965年、シドニー・ラフトと離婚後、俳優のマーク・ハーロンと4度目の結婚をしたが、わずか2年で離婚。
1969年、音楽家のミッキー・ディーンズと5度目の結婚をして…同年の6月22日にこの世を去ることとなる。
“史上最高のエンターティナー”と呼ばれた彼女が遺した名言の一つにこんな言葉がある。
お金が無くても生きていくことはできる
だけど私は愛なしでは生きられない
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