尾崎紀世彦の大ヒット曲「また逢う日まで」の誕生エピソード
1971年(昭和46年)3月5日、当時28歳だった尾崎紀世彦の「また逢う日まで」(日本フォノグラム)が発売された。 同年の洋楽/邦楽ヒットソングといえば… 【洋楽】 1位「Joy To The World 」/ スリー・ドッグ・ナイト 2位「Maggie May」/ロッド・スチュワート 3位「It’s Too Late」/キャロル・キング 【邦楽】 1位「わたしの城下町」/小柳ルミ子...
View Article受験生ブルース〜日本のフォークソングの源流を創った男、高石ともやの偉大な足跡
この歌の原作者は中川五郎。 訳詞家としてボブ・ディランのすべての楽曲の歌詞を翻訳しているほか、フォークシンガー、翻訳家、小説家としても活動する人物だ。 かつて“関西プロテストフォークの旗手”といわれた彼がこの歌を創作したのは1967年(当時18歳・高校3年生)だった。...
View Article名器ギブソンES-335を愛したエリック・クラプトン
ギブソンES-335が発表されたのは1958年で、フライングVやエクスプローラーと同じタイミングだったという。 ボディーの両サイドに空洞を持ち、中央は埋まっているセミアコースティックギター(セミアコ)は、それ以前には存在しなかった。...
View Article木村充揮の歌ルーツ〜日本を代表する“稀代の唄うたい”が、若かりし頃に憧れた歌手、刺激を受けた音楽体験
木村充揮。 1975年、憂歌団のボーカルとしてデビュー以来“天使のダミ声”と称される独特の声とブルースフィーリング溢れる独特の歌い回しで絶大な人気を誇ってきた。 現在はソロ活動を中心にロック、ジャズ、ブルースにとどまらず演歌や民俗音楽にいたるまで、あらゆるカテゴリーを包括したボーダーレスなシンガーとして多方面で活躍している。...
View ArticleSomething〜ジョージ・ハリスンの最大のヒット曲はこうして生まれ、歌い継がれてきた
あの娘の仕草のひとつひとつが ほかの誰よりも強く僕をひきつける 愛をささやく時の何かが… もうあの娘を離したくない 心からそう思う 本当に この歌は、1969年9月にビートルズが発表したイギリス盤公式オリジナルアルバム『Abbey Road』に収録された曲であり、同年10月にシングルカットされ21枚目のオリジナルシングル曲ともなった。(※両A面曲で片面は「Come Together」)...
View Article「スペイン革のブーツ」と「木綿のハンカチーフ」
ボブ・ディランと太田裕美。 ローリング・ストーン誌が選ぶ“歴史上最も偉大な100人のソングライター”において第1位となった男と、1976年に日本で(山口百恵をおさえて!)最も活躍した女性アイドルとの間に“ちょっと面白い話”があるという。 1964年、ボブ・ディランが23歳の時にリリースした3作目のスタジオアルバム『The Times They Are...
View Articleレスター・ヤング 27歳〜ビリー・ホリデイとの出会い、死が二人を分かつまで続いたプラトニックな関係
1937年、レスター・ヤングは27歳の時にビリー・ホリデイ(21歳)と出会う。 彼が当時在籍していた“カウント・ベイシー・オーケストラ”に、彼女もたびたび参加するようになっていたのだ。 彼は親しみを込めて、彼女に“レディー・デイ”という愛称をつけた。...
View Articleチャック・ベリー27歳〜順風満帆な新婚生活、運命を変えたマディ・ウォーターズからの一言
ボ・ディドリーやリトル・リチャードと並び“ロックンロールの創始者の一人”として知られているチャック・ベリー。 ロックが好きならば彼の名を知らない人はいないだろう。 ビートルズのジョン・レノンが「ロックンロールに別名を与えるとすれば“チャック・ベリー”だ」と発言しているほど、後進のロックアーティストたちに多大な影響を与えてきた彼。...
View Article喝采〜ちあきなおみが歌った“悲しみの名曲”の誕生秘話
「喝采」は、歌手・ちあきなおみの13枚目のシングル曲として1972年9月10日に発売された楽曲である。 当時25歳だった彼女は、この曲で『第14回日本レコード大賞』の大賞をはじめ、その年の賞という賞を総なめにした。 リリースから3ヶ月でのレコード大賞受賞は史上最短記録だったという。...
View Articleぼくたちの失敗・森田童子〜引退から10年後に突如として注目を集めた謎のカリスマ歌手
森田童子。 彼女は、人前ではサングラスを決して外さなかったといわれている。 本名も素顔もすべて謎のアーティストである。 公表しているパーソナルデータといえば…1952年1月15日に東京都で生まれたということくらいだ。...
View Article我が窮状〜稀代のスーパースター沢田研二の反骨精神
【窮状(きゅうじょう)】という言葉を辞書でひいてみる。 「困っている状態」「大変苦しい立場にいるようす」「痛々しい状態」などと書いてある。 この歌は、日本を代表する人気歌手“ジュリー”こと沢田研二が2008年に発表した還暦記念アルバム『Rock’n Roll March』に収録されている。 作詞は彼自身の手によるもので、作曲は沢田の盟友でもあり日本を代表する作曲家、大野克夫によるものだ。...
View Articleプロコル・ハルムの名曲「青い影」にまつわるいくつかの逸話
ビートルズが伝説の名盤『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』を発表した1967年、同じイギリスで一曲の名曲が誕生した。 ゆったりとしたスケールの大きなメロディーと、印象的なオルガンのフレーズは、誰もが一度は耳にしたことがあるのではないだろうか? 日本では一般的に「青い影」のタイトルで知られているこの「A Whiter Shade of...
View Articleシド・ヴィシャスの死〜革ジャンのポケットから発見された直筆の遺書
パンクのアイコン的存在として現代の若者やカルチャーにも影響を与え続けているシド・ヴィシャス。 1979年2月2日、彼は麻薬の過剰摂取によってこの世を去った。享年21。 彼のデビューパフォーマンスとなったセックスピストルズのギグを撮影していたことでも知られる映画監督ドン・レッツは、彼のことをこう回想している。 「シドはいつもトラブルに巻き込まれてた。マヌケだったからな。愛されるバカだったよ…。」...
View Article無縁坂〜母の人生を坂道に喩えながら綴ったさだまさしの名曲
この「無縁坂」は、さだまさしが23歳の時(1975年)にグレープの6枚目のシングルとして発表した楽曲である。 東京都文京区湯島4丁目に実在する坂を舞台に、年老いた母に対する息子の想いが歌詞に綴られている。 この何か意味ありげな名前を持つ坂。 一体どんな坂なのだろう?そして、この歌はどんな経緯で紡がれた歌なのだろう?...
View Article大阪で生まれた女〜30分を超える歌物語をヒット曲に導いたのはロック界の大物だった!
1979年、当時25歳だったBOROはシングル「大阪で生まれた女」で歌手デビューを果たす。 きっと50代から60代の大阪人にとっては、今でも思い入れの強い楽曲の一つだろう。 オリジナルの歌詞が18番まである曲で、まともに歌うと30分を超える大作としても知られている。 1番から16番までに男女の恋物語が綴られ、最後の17番と18番ではBOROの人生観が語られている。...
View Article遠藤賢司の名曲カレーライス
これは伝説の純音楽家“エンケン”こと遠藤賢司が1972年に発表した楽曲だ。 70年代、日本においてのフォークソングはいわゆる“四畳半フォーク”と呼ばれるものが主流だった。 60年代から70年代にかけてアメリカでウッディ・ガスリーやピート・シーガー、そしてボブ・ディラン、ジョーン・バエズ等が歌った“プロテストソング”に影響を受けた日本のフォークシンガー達もいたのだが…時代と共に歌も変化してゆく。...
View Articleたどりついたらいつも雨ふり〜吉田拓郎が書き下ろしたザ・モップスの代表曲
この「たどりついたらいつも雨ふり」は、ザ・モップスの12枚目のシングルとして1972年7月5日にリリースされた“70年代の名曲”である。 作詞作曲は、当時“フォークブームの立役者”として活躍していた吉田拓郎。 この歌には原曲があるという。 拓郎がまだ地元の広島でアマチュアとして活動していた頃に所属していたバンド“ダウンタウンズ”の曲で、当時は「好きになったよ女の娘」というタイトルだった。...
View Articleジョルジュ・ムスタキ27歳〜エディット・ピアフとの恋、ソングライターとしての成功、そして破局
ジョルジュ・ムスタキという男をご存知だろうか? エジプトはアレキサンドリア生まれのギリシャ人という生い立ちを持つ彼は、17歳の時に一人パリへと移り住み、ピアノバーなどで働きながら、当時の音楽シーンの有名人達と知り合う。 シャンソン界の大御所ジョルジュ・ブラッサンスを信奉していた彼は、ある日、音楽仲間からエディット・ピアフを紹介される。 ピアフは無名だった彼(当時25歳)に一目惚れしてしまう…。...
View ArticleLe métèque(異国の人)〜エジプト生まれのギリシャ人がパリの街で紡いだ多国籍ソング
よそ者の顔をした僕 彷徨えるユダヤ人 ギリシャの牧人 泥棒の浮浪者の顔 僕の肌 それはすべての夏の太陽に刃向かう… ジョルジュ・ムスタキという男をご存知だろうか? エジプトはアレキサンドリア生まれのギリシャ人という生い立ちを持つ彼は、17歳の時に一人パリに移り住み、ピアノバーなどで働きながら、当時の音楽シーンの有名人達と知り合う。...
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