1992年5月6日、マレーネ・ディートリヒ(享年90)はパリ8区にある自宅のベッドで静かに息を引き取った。
死因は肝臓と腎臓障害であったとされる。
亡くなる前の12年間はほぼ寝たきりだったという。
葬儀はフランス・パリのマドレーヌ寺院とドイツ・ベルリンの二カ所で行われ、彼女の亡骸は同年(本人の望み通り)故郷シェーネベルクで眠る母の墓の横に埋葬された。
その墓碑にはこんな言葉が刻まれている。
人生の思い出が刻まれた場所
ここに私はいる マレーネ 1901-1992
1901年、彼女はドイツのベルリン郊外シェーネベルク生まれた。
本名、マリア・マグダレーナ・ディートリッヒ。
彼女が6歳の時にプロイセン王国近衛警察士官だった父が病死する。
ほどなくして母親は軍人と再婚するが…その夫も第1次世界大戦で戦死する。
母親は働きながら彼女と姉にフランス語を習わせるなどして教育に力を入れたという。当時、ヨーロッパは第1次世界大戦後の深刻な不況下にあった。
インフレが悪化し、人々の生活は苦しくなる一方だった。
不況にも関わらず、ベルリンの街にはキャバレー、カフェ、劇場が立ち並び、享楽的な雰囲気に包まれていたという。
1919年、18歳になった彼女は国立ヴァイマル音楽学校に入学し、ヴァイオリニストを目指すが…手首を痛めて音楽家の道を断念。
翌年、演劇に転向しマクス・ラインハルトの演劇学校に入学する。
1921年、在学中だった彼女は二十歳で映画デビューを果たすこととなるが…家計を助けるために、キャバレーや劇場での仕事を選ぶ。
女優を目指してオーディションとレビュー巡業を繰り返す“下積み時代”を送っている最中に、彼女は“マレーネ・ディートリッヒ”と名乗るようになる。
この芸名は、幼い頃から自分で決めていたものだという。
女優としてのキャリアを着実に重ねていた彼女は、1928年、母国ドイツで歌手デビューを果たしている。
1930年、28歳になった彼女はベルリンの舞台に立っていたところを映画監督ジョセフ・フォン・スタンバーグに認められ、ドイツ映画最初期のトーキー(映像と音声が同期した映画)作品『嘆きの天使』に出演し、世界的に注目を集める存在となる。
大きく弧を描く細い眉に象徴される個性的かつ退廃的な美貌と脚線美には、100万ドルの保険がかけられていたという逸話も残っている。
同年、彼女はアメリカのハリウッドへと進出し、人気俳優ゲイリー・クーパーと共演した『モロッコ』でアカデミー主演女優賞にノミネートされるという快挙を遂げる。
1932年公開の映画『上海特急』での成功で、その人気を確たるものとする。
その翌年、彼女の母国ドイツではアドルフ・ヒトラーが首相の座につき、1934年に国家元首となる。
当時、アメリカに渡りトップ女優としてその名を世界に知らしめていたディートリヒに対して、ヒトラーは親近感を抱いていたという。
そしてヒトラーは彼女に帰国を要求する。
「私はドイツには帰りません。」
ナチスを嫌っていた彼女はその要求をキッパリと断り、アメリカ国籍を得るためにドイツの市民権を放棄する。
1939年(当時38歳)には正式にアメリカの市民権を取得する。
顔をつぶされた格好となったヒトラーは、ディートリヒが出演している多くの映画作品をドイツ国内で上映禁止とする。
ところが、彼女の“芯の強さ”は並ではなかった。
40代となった彼女は、第二次世界大戦が激化してゆく中、ヨーロッパ各地の前線でナチスドイツと戦う連合国兵士の慰問を積極的に行なう。
第二次世界大戦中はCIAの前身である情報調査局のために反ナチスドイツをテーマにしたアルバムを収録。
ヒトラーの差し金で母国ドイツでは“裏切り者”として指弾された彼女だったが、戦後、アメリカでは市民として最高の栄誉とされる大統領自由勲章を授与している。
フランスでも最高勲章の一つであるレジオンドヌール勲章を授与するなど、彼女のスター女優としての功績と影響力はとても大きいものだった。
そんな彼女も、50代を迎えた1950年以降は映画の仕事が減ったため、歌に軸足を移してアメリカやヨーロッパで歌手活動を展開するようになる。
ベトナム戦争の時には反戦歌「Where Have All the Flowers Gone(花はどこへ行った)」やボブ・ディランの「Blowin’ in the Wind(風に吹かれて)」を歌い、平和への願いと祈りを捧げた。
コンサート中に足を骨折してしまったことをきっかけに、彼女は74歳の時に引退を宣言する。
引退後も彼女へのファンレターは絶えなかったという。
それまで自らの出身地(ドイツのベルリン)について多くを語ることのない彼女だったが、1989年にベルリンの壁が崩壊した時にこんな言葉を残している。
「私は生粋のベルリンっ子よ!素晴らしいわ!私の街は自由よ!」
アメリカ国籍を取得しながらも晩年はパリで暮した彼女。
ナチスを嫌い、時代に翻弄されながらも…ドイツ人の誇りを捨てなかった彼女は、その生涯を通じて愛する祖国への想いを持ち続けていたという。
<引用元・参考文献『国境を越えて愛されたうた』竹村淳著/彩流社>
こちらのコラムの「書き手」である佐々木モトアキの音楽活動情報です♪
宜しくお願い致します。
【佐々木モトアキ独り唄いTOUR“歌ものがたり2021”春夏】
5月1日(土)岡山Desperado
5月2日(日)島根(出雲)Bar Soul
5月3日(月・祝)鳥取(米子)シンワンメイク
5月4日(火・祝)昼-鳥取(米子)スナックCandy
5月4日(火・祝)夜-鳥取(米子)押口ガレージ
5月8日(土)山口(下関)T-Gumbo
5月16日(日)茨城(水戸)音食座敷 開化亭
5月28日(金)京都 夜想
5月29日(土)兵庫(宝塚)IL grazie
5月30(日)八幡DELSOL café
6月5日(土)広島OK鉄板
6月6日(日)佐賀LIVE BAR雷神
6月12日(土)埼玉(新座)エアストリームカフェ
6月13日(日)新潟(三条)Gallery Bar Veronica
6月25日(金)群馬(前橋)Cool Fool
6月26日(土)東京(高円寺)MOONSTOMP
6月27日(日)埼玉(川越)大黒屋食堂
7月3日(土)田川Diamond Moon
7月4日(日)行橋Rock ‘n Roll Bar Memphis
7月6日(火)福岡(薬院)遊来友楽
7月10日(土)熊本(八代)bar 7th chord
7月11日(日)山口(柳井)みんなの広場 Live Village
7月16日(金)蒲郡Chot Bar VOODOO LOUNGE
7月17日(土)名古屋 喫茶ニューポピー
7月18日(日)浜松(弁天島)LIVE & DISCOマルガリータ
7月24日(土)群馬(渋川)Casa Midori
7月29日(木)仙台 ホームラン酒場
7月30日(金)岩手(宮古)カントリーズcafe
7月31日(土)岩手(二戸)HOUSE OF PICNIC
8月1日(日)秋田(能代)ハックルベリー
8月3日(火)小郡 ジラソーレ
8月7日(土)群馬(下仁田)otenki食堂
8月21日(土)久留米 農と音
8月22日(日)山口(萩)玉ネギ畑
8月23日(月)東広島pasta amare
8月27日(金)福岡 Bassic.
8月28日(土)LIVE BAR雷神
8月29日(日)大牟田 陽炎
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新作ミニアルバム『You』のタイトルナンバー「You」のミュージックビデオです♪
映像編集、ポートレート(写真)撮影共に、佐々木モトアキ本人が手掛けております。
とてもシンプルな技法ですが、何よりも登場する皆さんの表情が素敵です
人が“目を閉じている”表情。
その“瞼(まぶた)に浮かんでいる”誰かの顔。
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