悲しい色やね〜大阪弁、女言葉で綴られた名曲はこうして生まれた
1980年代前半…日本では“一億総中流”という言葉が生まれた。 そんな中、関西弁で歌われた一曲のバラードがヒットチャートを駆け上がった。 実力派歌手、上田正樹の歌唱によって1982年にリリースされた名曲「悲しい色やね」。...
View Articleボブ・ディランの少年時代〜耳を傾けた列車の音、ラジオで聴いた音楽、ひたすら読み漁った本
1941年5月24日、彼はミネソタ州の北東部に位置する街ダルースで生まれる。 出生名はロバート・アレン・ジマーマン。 祖父母はロシアのオデッサ(現ウクライナ)やリトアニアからの移民であり、父エイブラハム・ジマーマンと母ビアトリス・ストーンはアシュケナジム(東欧系)ユダヤ人だった。 彼が6歳になる頃、弟のデイヴィッドを含む一家はメサビ鉄山の鉱山町ヒビングに引っ越しをする。...
View Article松田聖子のヒット曲「赤いスイートピー」の誕生秘話
1982年1月21日、当時トップアイドルの名をほしいままにしていた松田聖子が8枚目のシングルをリリースした。 曲のタイトルは「赤いスイートピー」。 その歌は、これから訪れる新しい季節に向けた“春ソング”だった。 クレジットには作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂(松任谷由実のペンネーム)の名が記されている。 スイートピーと言えば、春の代表的な花である。 原産はイタリアのシチリア島。...
View Articleチャック・ベリーのFirst Step〜運命を変えた一曲、24歳でようやく手に入れたエレキギター
チャック・ベリー。 ロックが好きならば、彼の名を知らない人はいないだろう。 ボ・ディドリーやリトル・リチャードと並び“ロックンロールの創始者の一人”として知られている人物だ。 ビートルズのジョン・レノンが「ロックンロールに別名を与えるとすれば“チャック・ベリー”だ」と発言しているほど、後進のロックアーティストたちに多大な影響を与えてきた彼。...
View Article親父の一番長い日〜感動の一曲が初演された舞台裏で起きていた“ちょっといい話”
それは、この曲が人前で初めて歌われた日の出来事だった。 「僕が歌いながら長い中間演奏でふっと後ろを振り向くと、指揮者が大きなタオルで豪快に涙を拭きながら譜面も見ないでタクトを振られている姿を見たら、なんだか胸に迫るものがあって…その後、歌うのに声が震えたりして、凄く大変だったのを憶えています。色んな人の愛に支えられて歌というのは出来上がっていくもんだなぁと、その時つくづく思いました。」...
View Article尾崎紀世彦の大ヒット曲「また逢う日まで」の誕生エピソード
1971年(昭和46年)3月5日、当時28歳だった尾崎紀世彦の「また逢う日まで」(日本フォノグラム)が発売された。 同年の洋楽/邦楽ヒットソングといえば… 【洋楽】 1位「Joy To The World 」/ スリー・ドッグ・ナイト 2位「Maggie May」/ロッド・スチュワート 3位「It’s Too Late」/キャロル・キング 【邦楽】 1位「わたしの城下町」/小柳ルミ子...
View Article名器ギブソンES-335を愛したエリック・クラプトン
ギブソンES-335が発表されたのは1958年で、フライングVやエクスプローラーと同じタイミングだったという。 ボディーの両サイドに空洞を持ち、中央は埋まっているセミアコースティックギター(セミアコ)は、それ以前には存在しなかった。...
View Articleスティング〜ポリス結成物語
1976年5月1日、スティング(当時24歳)は北アイルランド出身の舞台女優フランシス・トメルティと結婚をする。 二人の出会いはスティングがまだ小学校の国語教師と並行して“ラスト・イグジット”というバンドで活動していた時期だった。 当時スティングは、音楽活動と教師のどちらが本当にやりたいことなのか?日々迷っていたという。 妻フランシスは、そんな夫に助言をした。...
View Article春咲小紅〜矢野顕子という“ブレない音楽家”をお茶の間に浸透させたCMソング
カネボウ化粧品の春のキャンペーンのCMソングに起用されたこの「春咲小紅」(はるさきこべに)は、矢野顕子の5枚目のシングルとして1981年2月1日にリリースされた。 オリコン週間シングルチャート最高位5位を記録し、矢野の名前を一気に全国区にしたヒットソングである。 彼女の楽曲に、当時“新進気鋭のコピーライター”として名を馳せていた糸井重里が作詞を担当。...
View Articleレディー・ガガやビョークよりも奇抜!?“パンクの母”ニナ・ハーゲンのド派手な足跡
ドイツが生んだ“パンクの母”ことニナ・ハーゲン。 メッセージ性の強い表現。 パンク〜グラムロックへのリスペクト。 その奇抜な風貌からは想像しがたい歌声。 オペラ、カンツォーネ、そしてヨーデルやホーミー(モンゴルの伝統的な発声法)、絶叫、悶絶、唸り声などなど…多彩な要素を取り入れた唯一無二の歌唱スタイルはまさに圧巻の一言に尽きる。 今日はカルト的な人気を誇った彼女の足跡をあらためてご紹介します。...
View Article最後のニュース〜筑紫哲也と井上陽水の深い親交によって生まれた名曲
♪「最後のニュース」/井上陽水 昭和から平成へ…ベルリンの壁が崩壊し、天安門事件やリクルート事件に関するニュースが連日報道されていた1989年の夏にこの「最後のニュース」は作られた。 作詞作曲を手掛けた井上陽水は当時41歳で、デビューから満20年という節目の年を迎えていた。...
View Article横須賀ストーリー〜“百恵伝説”はここから始まった!16才の少女の人生を変えた歌
この「横須賀ストーリー」は、1976年6月にリリースされた山口百恵の13枚目のシングル曲だ。 前年に「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」をヒットさせたダウン・タウン・ブギウギ・バンドの宇崎竜童(作曲)、そして彼の妻としても知られている阿木燿子(作詞)の手によって作られた作品である。 売上81万枚を記録し、オリコン集計では百恵の最大ヒットシングルとなった。...
View ArticleYesterday Once More〜ドラム演奏の実力が発揮されたレコーディングエピソード
若い頃は好きな曲を待ちながら よくラジオを聴いていたわ その曲がかかると一緒に歌ったりして 笑顔になれたの 1983年2月4日、カレン・カーペンターは32歳でこの世を去った。 死因は摂食障害がもたらした心不全だった。 カーペンターズといえば、彼らが活躍した1970年代当時、ホワイトハウスやディズニーランドでの演奏を許された唯一のミュージシャンだった。...
View Article木村充揮の歌ルーツ〜日本を代表する“稀代の唄うたい”が、若かりし頃に憧れた歌手、刺激を受けた音楽体験
木村充揮。 1975年、憂歌団のボーカルとしてデビュー以来“天使のダミ声”と称される独特の声とブルースフィーリング溢れる独特の歌い回しで絶大な人気を誇ってきた。 現在はソロ活動を中心にロック、ジャズ、ブルースにとどまらず演歌や民俗音楽にいたるまで、あらゆるカテゴリーを包括したボーダーレスなシンガーとして多方面で活躍している。...
View Articleジェフ・ベック少年時代〜ジーン・ヴィンセントの「Be Bop A Lula」から受けたロックンロールの洗礼
1944年6月24日、彼はイングランド中西部の都市ウォリントンで産声をあげる。 いわゆる中流家庭に生まれた彼だったが、当時はまだイギリスも戦時中だったため、彼は食べ物など配給制度の下で幼少期を過ごしたという。...
View Articleチューリップのアップリケ〜貧しさと矛盾に対して放たれた強烈なプロテストソングの誕生経緯
まずは… あの“エンケン”こと遠藤賢司(純音楽家)が生前に語った言葉をご紹介します。...
View Articleヨイトマケの唄
“ヨイトマケ”とは、「重い物を滑車で上げ下げしたり、網で引いたりする動作を、大勢で一斉にするときの掛け声。転じて、そのような労働、主に地固めなどの仕事を日雇いでする人。(広辞苑)」とある。 1965年7月、丸山明宏(現:美輪明宏)が作った名曲「ヨイトマケの唄」がキングレコードから発売され翌年(1966年)のヒット曲となった。 しかし、程なくしてこの歌は放送禁止となる。 歌詞の中にある...
View Articleプロコル・ハルムの名曲「青い影」にまつわるいくつかの逸話
ビートルズが伝説の名盤『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』を発表した1967年、同じイギリスで一曲の名曲が誕生した。 ゆったりとしたスケールの大きなメロディーと、印象的なオルガンのフレーズは、誰もが一度は耳にしたことがあるのではないだろうか? 日本では一般的に「青い影」のタイトルで知られているこの「A Whiter Shade of...
View Article木村充揮と内田勘太郎〜15歳の出会い、ブルースの魔力に惹かれていった二人
「内田と友達になって、どっちも好きな音楽が似とってね。そのうち内田の方がブルースにどんどんハマって行って、僕もだんだんブルースってええなぁと思うようになったんです。」(木村充揮) 1970年、木村充揮と内田勘太郎の二人は憂歌団を結成する。 バンド名は“ブルースバンド”の邦訳で、内田が考えたものだった。...
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