ジョージ・ハリスンの「バングラ・デシ」が日本で発売された日
1971年(昭和46年)9月25日、ジョージ・ハリスンの「バングラ・デシ」(東芝音工)が日本で発売された。 同年の洋楽/邦楽ヒットソングといえば… 【洋楽】 1位「Joy To The World 」/ スリー・ドッグ・ナイト 2位「Maggie May」/ロッド・スチュワート 3位「It’s Too Late」/キャロル・キング 【邦楽】 1位「わたしの城下町」/小柳ルミ子...
View Article伝説の白鯨になった男〜稀代のドラマー“ボンゾ”の神がかったプレイに酔いしれて
ロックファンの間では“ボンゾ”の愛称で広く親しまれているレッド・ツェッペリンのドラマー、ジョン・ボーナム。 ロック黄金期(60〜70年代)の音楽をかじった経験のある人間なら必ず知っていると言っても過言ではない“伝説のドラマー”である。 ロックミュージックにおいて考えられるドラムパターンは「彼が生前に叩き尽くした」とまで言われ、ミュージシャンの間では今でも崇拝されている存在だ。 Led...
View Articleベッシー・スミスを偲んで〜ブルースの女王と呼ばれた伝説的な黒人歌手の足跡と功績
1937年9月26日、ブルースの女王と呼ばれた伝説的な歌手ベッシー・スミス(享年43)が、巡業の途中、ミシシッピー州コアホマ付近で交通事故に遭い死亡した。 亡くなった当時、人気の絶頂にあった彼女の葬儀は派手に行われたらしいが、なぜか夫が墓石を買い供えるのを拒んだため、墓石は無いままだった。...
View Article風立ちぬ〜大瀧詠一と松本隆による“はっぴいえんどタッグ”が紡いだヒット曲の誕生秘話
「とてもいい曲だと思いますが…私には向いていないと思います。」 それは1981年8月の出来事だった。 東京の信濃町にあったレコーディングスタジオで、デビュー2年目の19歳の人気アイドル歌手が制作スタッフを困惑させた。 2ヶ月後…そこでレコーディングされた「風立ちぬ」は、彼女の7枚目のシングル曲としてリリースされた。...
View Articleマイルス・デイヴィスを偲んで〜スピリチュアル(霊的)とフィーリング(感覚)、晩年に語った音楽への意欲
1991年9月28日午前10時40分、カリフォルニア州サンタモニカの入院先の病院にてマイルス・デイヴィス(享年65)が亡くなった。 肺炎を悪化させ呼吸不全となり…関係者の見守る中、息を引き取ったという。 臨終に立ち会ったアシスタントマネージャーのゴードン・メルツァーは、当時の状況をこんな風に語っている。...
View ArticleAutumn In New York(ニューヨークの秋)〜天才作曲家ガーシュウィンの愛弟子が書いた秋の名曲
ジャズのスタンダードナンバーとして人気の高いこの名曲「Autumn In New York(ニューヨークの秋)」は、作曲家ヴァーノン・デュークが作詞も手掛けた作品で1934年に書き下ろされたもの。 同年に公開されたミュージカル『Thumbs Up!』の劇中歌として使用されたのが初出だと言われている。...
View Articleコバルトの季節の中で〜ジュリーが作曲し、稀代の演出家・久世光彦が歌詞を手掛けた“秋の名曲”
数々のヒットソングを放ってきたジュリー。 彼が27歳になる年に唄った「時の過ぎゆくままに」(1975年)は、自身が主演を務めたテレビドラマ『悪魔のようなあいつ』の挿入歌として大ヒットし、自己最高記録(累計91.6万枚)となる売り上げを叩き出した。 その頃、彼の才能と可能性を最大限に引き出した仕掛人がいたという。 当時TBSの演出家でプロデューサーだった久世光彦。...
View Articleカリフォルニアの歌〜ママス&パパスの名曲にまつわる時代背景と誕生秘話
「California Dreamin’」/ママス&パパス 木の葉はみんな枯葉色、そして空はどんより鉛色 そんな冬の日、僕は散歩していたんだ もしロスにいれば気持ちが安らぎ暖かいのに… こんな冬の日にはカリフォルニアを夢見るよ 1965年のこと。...
View Articleカルメン・マキ物語〜高校中退、寺山修司アングラ劇団との出会い、紅白歌手、そしてロックへの転向
「高校をやめてどうするの!?」 1968年のある日、彼女の母は語気を強めて言った。 カルメン・マキことマキ・アネット・ラブレイスは当時まだ17歳の高校二年生だった。 ただ意味もなく退学したわけではなかった。 「イラストレーターか役者になりたいという夢があったし、その頃は土方巽(ひじかたたつみ)さんの暗黒舞踏にも興味を持っていたわ。どうすればその夢に近づけるか?まだわからなかったけど…。」...
View Article百万本のバラ〜その原曲“マーラが与えた人生”を生んだラトビアの悲劇の歴史
10月といえば、秋薔薇のシーズンです。 「秋の花は腕で咲かせる。」と言うように、春花後の手入れと日頃の努力の結晶が見事な秋花となって応えてくれるのだという。 秋薔薇はゆっくりと開花し、春に咲くバラの花と比べて花色が濃く、色鮮やかなのが特徴です。 これは、夜と昼との温度差が大きいためと言われています。...
View ArticleSave The Last Dance For Me(ラストダンスは私に)〜車椅子の作詞家が最愛の妻に贈った究極のラブソング
あなたの好きな人と 踊ってらしていいわ やさしいほほえみも その方におあげなさい けれども 私がここにいることだけ どうぞ忘れないで (日本語詞:岩谷時子) この「Save The Last Dance For Me(ラストダンスは私に)」は、越路吹雪の十八番(おはこ)として広く知られていたため、日本ではシャンソンと思っている人が多くいるという。...
View Articleツイストブームの立役者チャビー・チェッカーの偉大な功績
1960年代に世界的で巻き起こったツイストブーム。 その立役者として大活躍し、グラミー賞でベスト・ロックンロール・レコーディング賞を受賞した人物がいる。 彼の名はチャビー・チェッカー。 ブームに火を点けたのは、1960年に彼が歌った「The Twist」だった。 その後、「Let’s Twist Again」「Twistin’ USA」「Slow...
View Articleイメージの詩〜吉田拓郎の運命を切り拓いた一曲
これこそはと信じれるものが この世にあるだろうか 信じるものがあったとしても 信じないそぶり 吉田拓郎は、鹿児島出身の広島育ちである。 彼は高校時代からバンド活動を始め、1968年に広島フォーク村を結成して本格的に音楽キャリアをスタートさせる。 当時、大学4年生だった彼は河合楽器からの就職内定を受けながらも、音楽の道で食べてゆく夢を捨てきれずにいたという。...
View Articleニニ・ロッソを偲んで〜“トランペットの詩人”と呼ばれた男の輝かしい功績
1994年10月5日、“トランペットの詩人”と呼ばれたニニ・ロッソ(享年68)がローマ市内にあるジェメリ総合病院で死去した。 死因は肺がんと公表された。 それは恒例の来日公演が決まった矢先の急死だった。 生前ニニは毎年冬に来日して、サンタクロース代わりに施設を訪れ、チャリティー活動を精力的に行っていた。...
View Articleクリームの誕生と解散〜ロック史に新たな潮流を生み出したトリオバンドの強烈なグルーヴと不協和音
1966年7月16日。 この日はロック史に新たな潮流を生み出したトリオバンド、クリームが結成された日といわれている。 ベース&ボーカルのジャック・ブルース。 ギター&ボーカルのエリック・クラプトン。 ドラムスはジンジャー・ベイカー。 彼らはBluesとサイケデリックロックを融合した強烈なバンドサウンドを完成させ、後進のアーティスト達に大きな影響を与える存在となった。...
View Article最後のニュース〜筑紫哲也と井上陽水の深い親交によって生まれた名曲
♪「最後のニュース」/井上陽水 昭和から平成へ…ベルリンの壁が崩壊し、天安門事件やリクルート事件に関するニュースが連日報道されていた1989年の夏にこの「最後のニュース」は作られた。 作詞作曲を手掛けた井上陽水は当時41歳で、デビューから満20年という節目の年を迎えていた。...
View Articleジョニー・キッド〜英国が誇るパブロックの雄ジョニー・キッド&ザ・パイレーツの足跡と功績
1966年10月7日、英国が誇るパブロックの雄ジョニー・キッド&ザ・パイレーツのフロントマン、ジョニー・キッド(享年30)がランカシャー州で自動車事故により死去した。 1959年に1stシングル「Please Don’t Touch」でデビューした彼らは、若かりし頃のビートルズやストーンズのメンバーにも大きな影響を与えたと言われている。...
View Article誰も知らない〜アメリカの禁酒法時代を背景に書かれた“落ちぶれた男の唄”
誰も知らない…お前のことなんか憶えちゃいないさ 誰一人な!誰も憶えちゃないぜ! 人間、落ちぶれた果てたときには独りぼっちってことよ… 人間、落ちぶれた果てたときこそが肝心ってことさ! この「誰も知らない(Nobody Knows You When You’re Down and Out)」は、ブルースのスタンダードナンバーとして長く愛されてきた名曲だ。...
View Articleジョン・レノンとポール・マッカートニー〜運命的な出会い、最強作曲コンビの誕生
「僕はクオリーメンというバンドを持っていた。僕がボーカルでリーダーだった。ポールに会ったとき、彼をバンドに入れるか入れないか?迷ったんだ。ポールを入れて強力なバンドにする方がいいのか?僕一人で引っ張っていく方がいいのか?結論は“ポールを入れる”だった。僕一人でやっていくより、彼と組んで最強のバンドを目指そう!力を合わせよう!と思ったんだ。」(ジョン・レノン)...
View ArticleKISS結成物語①〜ポール・スタンレーとジーン・シモンズの曲作り期間
【Introduction〜ポール・スタンレー】 1964年2月、12歳になったばかりの彼はTV番組『エド・サリヴァン・ショウ』でビートルズの洗礼を受ける。 「彼らが歌う姿を観て、俺は明確な目標を立てたんだ。俺も有名になり、尊敬され、憧れられ、あるいは嫉妬の的となる。こんな冴えない毎日から抜け出すための切符は“これしかない!”ってね。」...
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